微かなハロー

気ままに | 内向的に | 湿り気のある日記

木皿泉が好きだ

 

◎最初のきっかけ『すいか』
すいか DVD-BOX (4枚組)

すいか DVD-BOX (4枚組)

 

どうしても見てほしいものがあると、友人から『すいか』のDVDボックスを借りたのが最初だった。今から3年前(ドラマの放送自体は2003年)。個人的には、学生終わって働きはじめた最初の夏。前年までとの生活のギャップにようやく慣れはじめた頃だった。

ごくごく平凡に平和に生活してきた主人公が下宿「ハピネス三茶」での出来事を通じ変化していく物語。信用金庫に勤めていた主人公の同僚が3億円を横領し逃走するという事件も起こっているのだが、基本、劇的に何かが起こる訳ではないドラマ。だけどその中に、ゆるやかで、でも生きてくことに切実に向き合った印象的な言葉がいくつもある。

その中で一つあげるとしたら、片桐はいり演じる刑事が言った一言。

「もしかしたら、あなたが持っているものは、まだこの世には無いものかもしれないし。」

当時の自分の心境にやけに寄り添ってくれる気がして、特別印象に残ったのだ。登場人物と自分の境遇は違うのに、どうしてか心境が重なるしあわせな瞬間がある。だから台詞も、自分のために言われたような錯覚になってしまう。物語が持つ力。そんな瞬間が多々ある幸福なドラマだった。

その他にも浅丘ルリ子演じる教授の言葉は核心を突くものが多く、好きだった。というか、浅丘ルリ子の可愛さに心底驚いた記憶がある。教授、超魅力的。

 

木皿泉の書く家族観

『すいか』を見終え、ちょっとずつ木皿泉の本を集めるようになった。そして昨年買った『昨夜のカレー、明日のパン』。これを読んで私はやっぱり木皿泉が好きだ!と確信を得る。

昨夜のカレー、明日のパン

昨夜のカレー、明日のパン

 

何にそんなに心を掴まれたのかと言うと、7年前に夫を亡くした主人公テツコが、恋人の岩井さんにプロポーズされ、自分の本心を打ち明けた「私、本当は家族がキライなの」という言葉である。

「明るくて、くったくなくて、清潔」なだけの家族像の押し売りが世の中には多い。家族に限らずか。テツコじゃなくても感じるところはあるだろう。実際には家族は絶対的なものではないし、誰もがすんなりと自分の家族を受け入れられる訳じゃない。私も自分の家族を好き!と言い切れる自信はない。嫌いになりたくない、でも心から好きとは言えない。だからこそ、家族を描く小説やら映画に弱いのだけれども。

家族が苦手だったり嫌いだと感じてしまうことは、負い目なのだと思っていた。

その考えの転換を得たのは、高校生の頃通っていた美術予備校で見た小津安二郎東京物語』である。あまりに有名だしこちらのあらすじは割愛するとして、実の家族のつながりの希薄さ冷たさ(反対にそれでも切れない縁があるということでもあるのだが)に対し、血のつながりのない者同士だからこそ作り出すことのできる温かい関係性がある、と描いたこの映画に当時の私は衝撃を受けたのだ。

『昨夜のカレー、明日のパン』にはそれに通じるものがある。家族がキライ、とテツコが打ち明ける台詞の前後に彼女が自分の実家を思い出す描写がある。「親の価値観と自分の価値観が少しずつずれていったのに我慢していた」彼女は、夫の一樹が亡くなった後も実家には戻らず一樹の父「ギフ」と二人で生活している。当初は二人の暮らしに疑問を抱いていた岩井さんも、物語の後半にはそこに加わってゆく予兆が描かれている。家族としてはいびつかもしれないが、でもだからこそ、彼らは互いの暮らしを守るように一つの家で生活している。

家族がキライで、夫が長生きしていても幸せな家庭を作れなかったのではないか、と考えていたテツコだが、自分の本心に気付いたことで「少なくとも、嫌いではない方向へ進んでゆけば、いつかたどりつけるだろう。」と思うようになる。嫌いであること自体は否定せず、それでも前に進んでいく後押しをしてくれる言葉だ。

 

◎そして先日、SWITCHインタビュー 達人達 を見た

さて、そんなふうに受け手が勝手に私のための言葉だ!なんて捉えてしまう彼らの言葉だが、どうしてそんなに心に迫ってくるのか、先日放送された番組を見ていて腑に落ちる。作家本人が分析していた。

「実際に自分が言いたいことが最初からあって、それを書いても、たぶん見てる人は、それは借り物の言葉だからみんな感動もしてくれないし、すぐ忘れちゃうし、別に見たくもないと思うんだよね。でも、すごく一生懸命考えて、例えば孤独ってテーマでずっと考えて、実は孤独とはこういうことじゃないか、みたいなことが、考えて考えてドラマを通して考えているうちにふと出ることがあるんですよ。自分でも思わないような台詞とか。」

「一種の発明、発見みたいな台詞にやっぱりみんな共感してくれるみたいですね。」

書くことは考えること。自分で答えを見つけることなのだ、と。受け手が作家の言葉に共感するのは、自分が日頃思っていても言葉にできなかった、あるいはしてこなかったことを作家によって発見されるからなんだろうな。番組内で薬師丸ひろ子もそういうことを言っていた!普段人が意識下に置いているあれこれを形にできるのが、作家なのだ。

ところでこの番組は俳優の佐藤健との対談形式で行なわれていたのだが、漠然と持っていたイメージに反して佐藤健がわりと頑固だったり台本の「!」や「…」に対して持ってる見解が興味深くて面白かった。『Q10』まだ見てないから見てみないと。

 

“ある種の素朴さ”

前回に続いてまたしても星野道夫の本の話。といってもただのメモ。

長い旅の途上 (文春文庫)

長い旅の途上 (文春文庫)

 

星野道夫長い旅の途上』より。

「原野の暮らしに憧れてやってくるさまざまな人々、しかし、その多くは挫折するか、わずかな期間の体験に満足してやがて帰ってしまう。この地の自然は歳月の中でいつしか人間を選んでゆく。問われているものは、屈強な精神でも、肉体でも、そして高い理想でもなく、ある種の素朴さのような気がする」

これは自然に限らず、いろんなことに言える気がして。何か一つのことを続けていける人っていうのも、この「ある種の素朴さ」を持っている/保ち続けているような。

“意味のない広がり”

もう発売して一ヶ月ほど経ってしまったけど、Coyote新刊の特集が星野道夫だった。ちまちま読んでいたのでようやく特集部分を読み終えた。

 

Coyote No.53 ◆ 星野道夫のアラスカの暮らし

Coyote No.53 ◆ 星野道夫のアラスカの暮らし

 

 

2年くらい前だったと思う。知人に教えてもらってはじめて星野道夫のことを知った。同時に教えてもらい、心が震えたのがエスキモー族の詩。

ずっと、ずっと大昔 人と動物がともにこの世にすんでいたとき なりたいとおもえば人が動物になれたし 動物が人にもなれた。 

「魔法としての言葉」金関寿夫(翻訳)

星野道夫はアラスカに渡った後、野生動物の写真を撮りながら土地に伝わる神話やその場で暮らす人々の生活を記録していくようになる。そして神話に度々登場するワタリガラスを追ってシベリアにも向かった。

もともと私は物語というものが好きで、神話や民話にも無性に惹かれる。圧倒的な自然現象や景色と向き合う必要がある時、それを上手に受け入れるために人間が作り出した装置が神話の類なのではないかと思っていて、そんな人間の営みって、とってもいいなあ!と思うのだ。原始的だけど口述で伝えられるし物として残らないけれど誰もが自分のものにすることもできてそれでいてかさばらないし合理的。且つ、人を楽しませる要素もあって。素晴らしい創作物だと思う。

 

“意味のない広がり”とは、前述のCoyoteにも引用されていた一文で、元々は『旅をする木』に登場する言葉のようだ。

人間の世界とは関わりのない、それ自身の存在のための自然。アラスカのもつその意味のない広がりにずっと魅かれてきた。(『旅をする木』)

意味のない広がり…なんて魅力的な言葉だろう。自分が介入しなくても十分に成り立っている世界が常にどこかにある、ということの奇妙な安心感。これは星野道夫の他の書籍でも度々触れられている感覚である。その広がりの中に「点として」存在することの恐怖と喜びを想像するだけで、本を手にするこちらにも高揚感が。

あらゆる人が指摘している点だが、彼の撮る野生動物の写真は「景色」の中にいる。動物達を捉えているのだが、決して主役じゃないというか…あくまで自然の中にいる動物たちの写真なのだ。角だけになり苔むして植物と同じように森の中で生きている(思わずそう言いたくなる様子なのだ)ヘラジカの姿も見ることができる。 動物達も自然の中では「点として」生きていて、自然を受け入れ、時には耐えながら生きてるんだということを知ると、何故だかこちらも身体が軽くなるような気がする。そういえば、自然=動物と捉えることもできるけど、人間=動物でもある、と、ふと思う。だからつまり必ずしも自然⇔人間でもないのだ。そういうところから『魔法としての言葉』に近付いていけるのかな、なんて。

 

星野道夫に関わる本を読んでいると、短い間隔で「これを覚えておきたい!」とか「ああ、あの感覚ってこうやって言葉にできるんだ」と思う言葉に次々と出会う。その場で覚えきれるわけがなく、その度付箋を付けておくのだが、読み返す度にその付箋の数も増えていく。 それはなんだか真っ新な大草原や雪の上を歩き進んでいく感覚にも、けもの道や誰かの足跡を見つけてその上を辿っていく感覚にも似ている。気がする。

旅慣れ

ここ2年くらいだろうか、一ヶ月に一度くらいのペースで遠出をすることが多くなった。バイトだったり観光メインの純粋な旅行だったり友人に会いに行ったりと目的は色々だが、なかなかの頻度だと思う。そうするとどんどん旅に慣れてしまうのだな。荷造りなんて、小さい頃は何よりも楽しみで(下手したら旅行本編よりもわくわくした)何日も前からすこしずつすこしずつやっていたのに、今や前日の夜中から旅立つ日の朝方に重い腰をあげてこなすようになってきた。夜行バスも新幹線も飛行機も乗り慣れた。

旅に慣れる、といっても、決してネガティブな意味合いではない。その先で出会うことの鮮度が落ちることはなく、毎回毎回感動し動揺し衝撃を受ける。むしろ興味や知識の幅が広がったことにより出会えるものが増えたと思う。たいした量じゃないが自由に使えるお金も増えて、見かけた屋台にふらっと立ち寄って店のおじさんと少しだけ話し、焼き鳥二、三本を買い夕飯を済ます、なんてことだってできる。旅に慣れるということは、未知のものと自分が接するのに慣れたということなのだろう。

旅行中は常に自分で行動を選択しなければならない。持ち物、服装、行く場所と食べるもの。限られた持ち物、時間の中で自分で組み立てていく数日間は、ある種の緊張感の中にいるわけで、だからこそ小さなことでも吸収できたりかけがえのない思い出になったりする。それが非日常というものなのかもしれない。でも本来、日常生活だってそうあるべきなんじゃないのかな。本当は毎日見ている景色が明日も見られるとは限らないのだ。だから日々、旅するように感覚を研ぎすませて過ごしたい。旅に慣れたら次は、日常に旅を持ち込めるようになれたらいいな、と思った。

遠吠えの季節

 

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このブログ。唐突にひっそりとはじめる。最近、こまめにアウトプットすることの重要さを諭されることが続いた。自分が今何を考えているか把握・自覚すること、そしてそんな自分を誰かに知ってもらうことの大切さ。文章を書くのは嫌いじゃない…どころか好きだし、気長に気ままにやってみようと思う。