微かなハロー

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“意味のない広がり”

もう発売して一ヶ月ほど経ってしまったけど、Coyote新刊の特集が星野道夫だった。ちまちま読んでいたのでようやく特集部分を読み終えた。

 

Coyote No.53 ◆ 星野道夫のアラスカの暮らし

Coyote No.53 ◆ 星野道夫のアラスカの暮らし

 

 

2年くらい前だったと思う。知人に教えてもらってはじめて星野道夫のことを知った。同時に教えてもらい、心が震えたのがエスキモー族の詩。

ずっと、ずっと大昔 人と動物がともにこの世にすんでいたとき なりたいとおもえば人が動物になれたし 動物が人にもなれた。 

「魔法としての言葉」金関寿夫(翻訳)

星野道夫はアラスカに渡った後、野生動物の写真を撮りながら土地に伝わる神話やその場で暮らす人々の生活を記録していくようになる。そして神話に度々登場するワタリガラスを追ってシベリアにも向かった。

もともと私は物語というものが好きで、神話や民話にも無性に惹かれる。圧倒的な自然現象や景色と向き合う必要がある時、それを上手に受け入れるために人間が作り出した装置が神話の類なのではないかと思っていて、そんな人間の営みって、とってもいいなあ!と思うのだ。原始的だけど口述で伝えられるし物として残らないけれど誰もが自分のものにすることもできてそれでいてかさばらないし合理的。且つ、人を楽しませる要素もあって。素晴らしい創作物だと思う。

 

“意味のない広がり”とは、前述のCoyoteにも引用されていた一文で、元々は『旅をする木』に登場する言葉のようだ。

人間の世界とは関わりのない、それ自身の存在のための自然。アラスカのもつその意味のない広がりにずっと魅かれてきた。(『旅をする木』)

意味のない広がり…なんて魅力的な言葉だろう。自分が介入しなくても十分に成り立っている世界が常にどこかにある、ということの奇妙な安心感。これは星野道夫の他の書籍でも度々触れられている感覚である。その広がりの中に「点として」存在することの恐怖と喜びを想像するだけで、本を手にするこちらにも高揚感が。

あらゆる人が指摘している点だが、彼の撮る野生動物の写真は「景色」の中にいる。動物達を捉えているのだが、決して主役じゃないというか…あくまで自然の中にいる動物たちの写真なのだ。角だけになり苔むして植物と同じように森の中で生きている(思わずそう言いたくなる様子なのだ)ヘラジカの姿も見ることができる。 動物達も自然の中では「点として」生きていて、自然を受け入れ、時には耐えながら生きてるんだということを知ると、何故だかこちらも身体が軽くなるような気がする。そういえば、自然=動物と捉えることもできるけど、人間=動物でもある、と、ふと思う。だからつまり必ずしも自然⇔人間でもないのだ。そういうところから『魔法としての言葉』に近付いていけるのかな、なんて。

 

星野道夫に関わる本を読んでいると、短い間隔で「これを覚えておきたい!」とか「ああ、あの感覚ってこうやって言葉にできるんだ」と思う言葉に次々と出会う。その場で覚えきれるわけがなく、その度付箋を付けておくのだが、読み返す度にその付箋の数も増えていく。 それはなんだか真っ新な大草原や雪の上を歩き進んでいく感覚にも、けもの道や誰かの足跡を見つけてその上を辿っていく感覚にも似ている。気がする。