微かなハロー

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『極北の動物誌』

星野道夫の本を読み、特集された雑誌を読んでいくなかで、気になる本があった。ウィリアム・プルーイットの『極北の動物誌』である。

 

極北の動物誌

極北の動物誌

 

 

いきなり自分の話でなんですが、私は小学生の頃、動物が大好きでそれ故に動物園の飼育係になりたかったことがある。サマースクールに通って動物に触れ合ったり、そうでない時も動物園に通って彼らの姿をスケッチし、時にはカモが泳いだあとの水の波形を描いたりもしていた。当時から動物とその周辺には興味を持っていたのである。結局のところ飼育係になる夢より、絵を描く楽しさのほうに熱が傾いて現在にいたるのだけど。

そんな私なので、『極北の動物誌』はタイトルだけでたまらなく惹かれるものがあった。Coyoteでは「少年ならば誰しもが極北の動物たちの生態に心惹かれるものである」と書かれて紹介されていたけど、私(20代後半女性)の中にいる少年もそりゃもううきうきしていた。探してみたけれど近所の図書館にはなく、ならば買ってしまえとamazonで古書を購入した。それが昨年秋。それから数ヶ月かけてやっと読み終え、もうちょっと味わいたいなと先日二巡目に突入したところ。個人的に気になった点を。

 

①本著の中で使用されている 主に雪を表す単語の種類の多さ。

「クウェリ」「アピ」「プカック」「アニュイ」と、私たちには耳慣れない単語が出てくる。どれも雪のことなのだが、例えば「クウェリ」は枝に積もった雪のことで、「アピ」は地面に積もった雪のことだそう(これは星野道夫の『イニュニック』という本でも紹介されているのかな、改めて調べようとググったらこちらについてのブログ記事がたくさん出てきた)。積もった場所によって表す名前が異なるなんて面白いなと思う。日本語の場合はもうちょっと、雪自体の性質にちなんで命名されることが多いような。粉雪とかみぞれとか。それもまたちょっと違うのかな。
余談だけど、雪といえば中谷宇吉郎のことももうちょっと調べたいな、と思っている。以前LIXILギャラリーの展示で見たスケッチがとても魅力的だった。

②同じ地域に住む動物でもさまざまな種類がいるということ。

ハタネズミ、ノウサギ、オオカミ、ムースなど。動物と一言で言っても当然ながら彼らも多種多様で、草食肉食という分類だけじゃなく、社会性のあるなし(例えばハタネズミは社会性がなく単独行動、オオカミは猟りの際にも群れで動くなど社会性があると言える)、耐えられる寒さだってそれぞれ違うようだし、また敵を見つけるのに視覚だったり聴覚だったり触覚だったり、何によって世界を感知しているかの違いもある。そういう多様性を知るだけで私はたまらなくわくわくする。

③客観的な文章。

この本は全編を通して客観的にタイガ(=亜寒帯に発達する針葉樹林の林のこと)での出来事が描かれている。章によってトウヒの木や、ムースが主役になったりするが、誰か1人の研究者の視点だったり、動物の視点から描かれたものではない。それがとても読みやすい。例えばアカリスがイタチから逃げるシーンなんかは、リスの行動が一つずつ描かれてるだけなのに緊張感もスピード感もあってどきどきする。
他にも自然の描写など、文章自体に美しさを感じることが多々あった。と同時に、動物が他の動物に捕食されたり、人間の罠にかかるシーン、または「ムースの民」ことディンジェ族の行く末をシャーマンが告げる場面などは客観的に書かれてるからこそこちらに迫ってくる厳しさややりきれなさがあると思う。
また、訳者あとがきの言葉を借りれば作者の視点は「過剰に脚色することなくあくまでも冷静で科学的な視点」だ。科学的=客観的と言えると思うのだが、客観的に何かを書くということはそのことについて調べたり裏付けをとるような手間も時間も当然知識も必要で、主観のみで書くことよりも遥かに熱量が必要なのではないだろうか。書かれた動物たちと、彼らが住む土地そのものに、作者がただならぬ熱意と愛情をなみなみと注いでいたことが伝わってくる。

 

最後にまた自分の話で恐縮だけど、動物が好きだった幼少期、私は動物を観察するだけでなく動物そのものになりたかったのかもしれない。セーラームーンごっこは集団生活内で仕方なく参加していたが、家に帰れば仲の良い友人と嬉々としてヤマネごっこなんかをした。といっても丸まって転がったり、冬眠に備えて食糧を集めたりするだけなのだけど。外を歩いていて冬眠に適した樹の洞を見かければ駆け上がり、自分のサイズをぐぐっと小さくして中に入っていくことだってできた(これはもちろん想像上での話)。
その頃の感覚を、ヤチネズミの章を読んでいる時に思い出した。オオカミやオオヤマネコになって風のように走りたい、足音もたてずに跳ねたい、とかじゃなく非力な小動物が対象なのがなんか「らしい」なと我ながら思うのだが、そうやって自分を動物に重ねることで、景色の見え方を変えたり、自然に近付いたり、普段とは違う行動をしたい!という欲求を叶えていたのかもしれない なんて、今になって冷静に思えたのだった。