『撮ることにきめる』写真と日記と反応と
植田正治写真美術館に行ってきた。美術館そのものも、もちろん写真も、常設展のキャプション文章などもとてもよくて、自分の細胞がいくつかここで生き返った気すらする。
常設展はもちろんのこと、企画展『撮ることにきめる』、このタイトルがすでにいいな〜!ずるいよなあ〜!!と唸ってしまう。植田正治がアサヒカメラに連載していた文章〈春の雲〉の一部なのですが。
彼の写真の佇まいが好きだ。そこに在る、「何気ない」と言われるようなもの(でも多分本人からしたらどこも何気なくなんてない。身の回りの現象や風景ひとつひとつを同等に受け取っていたのではないかと感じる)を素直に掬いとっている。好意や興味を持って、周囲に接しているのが見える。
いい写真家は優れた観察者であると思うのだけど、視野の広さや周囲の些細な変化をキャッチする感受性の高さがそのまま表れているのが彼の文章なんじゃないだろうか。
個人的には今、「日記」というものについて思いを馳せることが多い。
このブログこそ一年近く放置するのが当たり前のようになっているものの、自分しか読めない日記は毎日欠かさず書き続けている。起きたことを時系列に沿って記録する日もあれば、考えていることを書き留めるポエミーな日もあり、単にその時の自分の記録、という感じなのだけど。
他人の日記を読む面白さ。ネットでいくらでも人の日記が読める時代、飽きることがない。こんな素敵な文章ただで読んでていいのでしょうか…と感じることがしばしば。
植本一子の『かなわない』『家族最後の日』『降伏の記憶』も、気がつけばのめり込むように読み進めてしまった。彼女も写真家だ。自分の人生を自分のものさしで捉えて受け入れている人・ものに触れたとき、自分の思考や感受性の幅がすこし広がるような気がする。確実に何かを受け取っていると思うのだけど、よくわからない。ありがとう、という気持ちになったりする。
ところで、去年21_21DESIGN SIGHTでやっていたアスリート展の挨拶文を今も覚えている。
アスリートは「反応し、考え、行動に移す」ために知覚=センサーの感度を研ぎ澄ませるトレーニングをして本番に備えている。(競技)環境の変化に気づき、順応し、自らの能力を最大限に発揮することが仕事なのだ、というニュアンスの文章だ。ちなみに、その挨拶文がすべての展示物の中で一番よかった。問いかけの質というか、広がりを含んでいるという点で。
また、オラファー・エリアソンのドキュメンタリー映画では、「アーティストは外の世界に反応することが仕事だ」と言っていた。彼は自然現象にアクションしていく作家だから「反応」の意味するところがわかりやすい。画材の特性に合わせて絵を描くような画家だって、タイプは違うが「反応」した結果が作品になっている。
きっと、どんな生業の人でも自分を取り巻く環境に反応しながら生きている。ただ、受け取り方の精度や深度、速度だったり、アウトプットするかどうか(するならその方法も)が人それぞれなだけだ。
また植田正治の話に戻る。彼の写真にはあまりスピード感を感じない。あくまで個人の感想ですけど。
写真家、というと、報道写真など、目の前の現象にすぐさま飛びつく反射神経の良さも浮かぶが、彼の場合はすこし違う気がする。それはたぶん、撮影のプロセスにおいて「受け取る」ことに比重が置かれているからなのでは?と感じた。『撮ることにきめる』も、この言葉の前の文が
雲の、きれいな日だった。
左から右へ、千切れたり、膨らんだり、消えてしまったりで、
雲の行進、なかなか、おもしろかった。
撮ることにきめる。
だ。おもしろい、と感じ、更に雲の動きと風景が重なるタイミングを見定めて、シャッターを切る。有名な砂丘での写真だって、立ち位置のバランスや、足跡が残らないような配慮などが垣間見れるからなのか、どこかゆったりとした時間の流れを感じる。
私は単純に、受け取るところを大事にしている人が好みなんだろうな。咀嚼している人、とも言えるかもしれない。